母性が無いけど育児する。

「母性」というものがある、と、言われている。
本能であると言われる。

母性があると、赤子のことを無条件でかわいいと思えたり、
子どものためなら自分の命をなげうっても良かったり、
とにかく無償の愛情を注げる存在になるらしい。

 

実際のところ、これは作られた概念で本能でも何でもない、子への愛情は子を育てることで芽生えてくるもので、女性性は関係ない、というのが最近の定説のようなのだけど、ともあれキーワードとしてあるせいで振り回される人も多いのではないかと思う。

 

そして、逆説的に、私には「母性」が無い。

だって父親だから。

 

勘違いされないよう明言すると、私は「子どもが好きじゃない」とは言っていない。*1 )

ただ、母性という言葉が培ってきた「母親かくあるべし」というイメージ画像を、自分のこととして感じたことは一度も無い。

これはメリットもデメリットもある。

他者によって作られたイメージ像の母親に追われることはない。

「子どもにはいつも笑顔で接したいのに、出来ない」というような、私から見ればロボットを目指してるのかな?というような標語を持つことが無い。*2

逆に、自分の中に「父親かくあるべし」という型を見出すことも出来ない。

現代の日本社会だと父親というのは大体「休日以外には仕事している」もので、自分の父親もそうだった。今子どもを育てる、となった時に、今どのようにふるまうべきで、将来どんな風な父親であるのが「模範的」なのか、正直モヤの向こうにあるように茫洋としたイメージしかない。

 

ともあれ、そんなこととは一切関係なく、今私は育児をしている。

赤子が泣けば様子を見て、オムツが汚れていたら替える、ミルクを与える、抱っこで寝かしつける。3歳児の食事やトイレの世話をする、遊びに付き合う、外に連れ出す。あるいは環境維持のための掃除・洗濯・炊事をする。

これらの必要なスキル、あえて言うなら育児のための職能という部分において、父親である私と母親である妻で、ほとんど遜色がない、と言い切ることができる。

 

つまるところ、「母性」が無くても、まあ育児はできる。

実践としては、どうしてもお世話に於いてはある程度のホスピタリティのようなものは必要になるのだが、湧き上がる無償の愛情が無くても、問題なくやっていける。

(ただ育児においては、問題なくやっていけるだけだと課題も出てくるのだけど、それは別途)

 

自分の中で「母性」に相当するものを求める気持ちはどうしても否めないのだけど。

育児を続けていく中で、いずれ見つかるかもしれないな、というこれまたボンヤリとした気持ちのまま、今日も3歳児と乳児のお世話をしているのだった。

 

 

*1:寝てるときに3歳児にのしかかられるのは結構邪険にしてしまうのだけど…

*2:おそらくそこまで字義通りの話ではない、という反論がくる気がするのだけど、負の感情を子どもに絶対にぶつけてはいけない、みたいな規範にはいつもモヤっとする